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紀の国の先人たち

スポーツ振興功労者 田村 木国(たむら もっこく)

明治22年(1889)~ 昭和39年(1964)
かつらぎ町生まれ
夏の全国高校野球大会の生みの親

明治22年(1889)、伊都郡笠田中村(現:かつらぎ町) に生まれる。本名は省三。大阪府立北野中学校(現:大阪府立北野高校) を卒業後、第三高等学校(現:京都大学) に入学するが中退。明治43年(1910)、大阪朝日新聞社で記者として活動を始める。

大正4年(1915)、箕面有馬電鉄会社(現:阪急電鉄株式会社)は、沿線開発の一環として大阪豊中の畑を買い入れグラウンドを建設、それを活用する催しについての相談を大阪朝日新聞社に持ちかけた。当時運動担当であった木国は、各地で人気が高まりつつあった中等学校野球の全国的な大会の開催を提案。上司に相談し、社長の賛成を得て開催が認められたが、この間約30分のことであったという。木国は全国各地に赴き大会への参加を呼びかけ、10地方73校の参加を得て、各地方代表10校による第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会) が開催されることとなった。

大会運営の中心的役割を果たした木国は、約40日間も社屋の会議室の机の上に寝泊まりし、「この大会を完成せねばという一心から、私は無我夢中で連日を暮らした。」と後に述懐している。この大会は、その後隆盛の一途をたどり、国民的人気を誇る夏の風物詩として定着することとなる。木国は、昭和26年(1951) の全国高等学校野球選手権大会において、日本高等学校野球連盟から「大会の生みの親」として表彰され、功労賞を受賞した。

また、中学時代から句作に親しみ、大正6 年(1917)、ホトトギス同人となる。大正11年(1922) には野村泊月らとともに「山茶花」を発刊するなど活躍。穏やかな表現の写生句を句風とした。たびたび生まれ故郷に呼ばれ、俳諧の例会などにも参加して指導にあたった。昭和39年(1964)、75歳で亡くなった。高野山の大門脇には「山門を出て秋日の谷深し」の木国句碑が建立されている。

 


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