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紀の国の先人たち

 田中 敬忠(たなか よしただ)

明治30年(1897)~昭和64年(1989)
和歌山市生まれ
史跡保護に尽くした郷土史研究家

明治30年(1897)、和歌山市に生まれる。大正5年(1916)和歌山県立農林学校卒業後、県立農事試験場で園芸技師として農林技術の改良や新品種の育成普及に携わる。戦後、農林省和歌山統計調査事務所の農林技官を勤めた。

幼い頃から郷土史や民俗への関心が深く、南方熊楠に師事して民俗学を学ぶなど、向学心は衰えることがなかった。昭和5年(1930)、和歌山県史蹟名勝天然記念物調査委員となったのを皮切りに、数々の文化財関連の委員等を歴任する。

敬忠は、自然景観の美しさを守ることや史跡保存の意義を広く訴え、果敢に文化財の保護運動を行っている。「史蹟・文化財保存への情熱は、少年の頃、神社合祀がすすめられた時、近くの神社の楠の大木が伐り倒されるのを見て、子供心に衝撃をうけた経験によるもの」と後に述懐している。

昭和24年(1949)、岩橋千塚古墳群一帯の開墾計画が持ちあがった。終戦後の日本は深刻な経済難と食糧難に遭遇、岩橋千塚も農地への開墾計画の対象となり、和歌山県は文部省へ開墾計画の申請書を提出した。文部省は古墳群の墳丘を残すという条件付きで開墾の許可を通達したが、敬忠は、条件付きの許可であっても究極的には古墳群の破壊につながると、地元の有志らとともに保護運動に立ちあがった。開拓審議委員会に、岩橋千塚古墳群保存の重要性を説くとともに、署名活動も展開した。幸いなことに食糧難も次第に緩和される方向に向かい、開墾計画も下火になり、古墳群は保全されることとなった。敬忠らの保存運動は、後に全国各地で行われた遺跡を守る運動の先駆けとして高く評価されている。

生涯を和歌山県の文化財保護や文化事業の向上と普及に尽力した田中敬忠は、昭和64年(1989)1月、91歳で亡くなった。

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