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紀の国の先人たち

芸術家 田中 恭吉(たなか きょうきち)

明治25年(1892)~大正4年(1915)
和歌山市生まれ
「傷める生命」の芸術家

明治25年(1892)、現在の和歌山市に生まれる。明治43年(1910)に県立徳義中学校を卒業後、上京して白馬会原町洋画研究所で学び、翌年東京美術学校日本画科に入学。恩地孝四郎や藤森静雄、大槻憲二、久本信男、三並花弟、土岡泉、香山小鳥、そして竹久夢二など、芸術の道を歩む仲間たちとの交遊を通じて独自の表現を模索するようになる。竹久夢二編『桜さく国 紅桃の巻』(明治45年)に詩を寄稿したり、新進画家が参集した画期的な展覧会「第1回ヒュウザン会展覧会」(大正元年)に出品したり、回覧雑誌『密室』(大正2~3年)にペン画や木版画、文芸小品を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮しはじめた。
やがて恩地孝四郎、藤森静雄とともに自刻による木版画と詩の作品集『月映』の刊行を計画。しかし前後して肺結核を発病し静養のため帰郷する。『月映』は和歌山にいる恭吉と東京にいる二人のあいだで私家版の制作が続けられ、『夢二画集』や『白樺』の出版で知られる洛陽堂から大正3年(1914)に公刊された。死を予期した恭吉の作品は、生と死を主題に緊張感みなぎるものとなっている。

大正4年(1915)、『月映』を見た萩原朔太郎から詩集の挿絵と装丁を依頼され、恭吉も「生命の残部」を傾けると約束するが、完成させることなくわずか23歳で逝去。大正6年(1917)、恭吉の遺作を収録した朔太郎の第一詩集『月に吠える』が恩地孝四郎の尽力で刊行され、詩と挿絵の見事な出会いは、その名を後世まで伝えることになった。朔太郎は「恭吉氏の芸術は「傷める生命」そのもののやるせない絶叫であった」と評している。現在、作品・資料の多くは恩地家から和歌山県立近代美術館に寄贈され、随時紹介されている。

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