天保3年(1832)~明治38年(1905)
和歌山市生まれ
明治新政府に大きな影響を与えた藩政改革を断行
天保3年(1832)、現在の和歌山市に生まれる。安政元年(1854)江戸に出て蘭学を学び、江戸赤坂邸蘭学所で教授となる。
紀州藩は、慶応元年(1865)の第2次長州征伐の莫大な軍事費負担などによる財政難に陥っていた。慶応2年(1866)藩主茂承は出を御国政改革制度取調総裁に任じ、藩政改革に着手。出の改革構想は兵制改革に力点を置き、財政再建のために藩士の禄高を減らし、農兵を用いて西洋式火器で装備した近代的軍隊を作ろうとするというものであった。しかし、藩内保守派が頑強な抵抗を示し、改革は挫折。出は蟄居を命じられてしまう。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れた際、紀州藩を頼ってきた敗残兵を江戸へ脱出させたことがとがめられ、藩主茂承は京都に幽閉され、紀州藩は存亡の危機に立たされる。新政府内にいた陸奥宗光のとりなしもあり、新政府への協力として、近代国家のひな形となる藩政改革に取り組むことを表明、明治元年(1868)再び出を中心に藩政改革が進められることとなった。
執政となった出は、明治2年(1869)藩政改革の綱領を発表、以前なしえなかった改革を推し進めていく。藩士の俸禄を大幅に削減するとともに、徴兵制を施行、近代的な軍隊の育成をめざして、初代戍営都督に就任した。ドイツ人の下士官カール・ケッペンを招いてプロシア式軍事教練を導入し、当時としては全国最大級である2万人規模の精鋭軍を築き上げた。また、近代的な軍隊の整備に伴って関連産業が発達、綿ネルや皮革などが和歌山の地場産業として成長することとなった。
四民皆兵の徴兵制を実現したこの藩政改革は、近代国家をめざす明治政府のモデルとして大きな影響を与え、明治4年(1871)に実施された廃藩置県の先例となるものであった。
改革の手腕を評価された出は新政府に採用され、明治4年(1871)に大蔵少輔、陸軍少将などを歴任、明治23年(1890)には貴族院議員に勅選されたが、薩長藩閥政府の中ではその力量を振るうことは困難であった。
大胆な藩政改革を行い、近代国家としての日本の軍制の姿を示した津田出は、明治38年(1905)に73歳で亡くなった。