文久2年(1862)~ 昭和18年(1943)
有田市生まれ
世界初の渦巻き型蚊取り線香を発明した事業家
文久2年(1862)、有田郡山田原村(現:有田市)に生まれる。生家は国内でも有数の規模を誇るみかん農家であった。慶應義塾に学び、福沢諭吉の薫陶を受けた英一郎は、「殖産興業海外輸出をなすを最高の職務と思惟せり」と、帰郷後の明治18年(1885)にみかんの海外輸出を目的とした上山商店(現:大日本除虫菊株式会社)を設立した。
同じ頃、福澤諭吉の紹介で、サンフランシスコで植物輸入会社を営むH.E.アモアが、日本の珍しい植物を求め英一郎の農家を訪ねた。その縁で、除虫菊の種子を譲り受ける事となる。明治19年(1886)から、英一郎は除虫菊の種子の栽培研究を開始。明治20年(1887)には、除虫菊の栽培と殺虫効果を発揮する除虫粉の製造に成功。英一郎は、害虫駆除に役立つ除虫菊の重要性を確信、さらに日本の特産品にして輸出すれば富国に貢献できると考え、全国的な普及を目指し、各地を講演して回り、除虫菊栽培の普及に努めた。
英一郎は、除虫粉に続き次々と新しい製品を開発。明治23年(1890)には、仏壇線香からヒントを得て、棒状の蚊取り線香を考案、発売し好評を得る。しかし、棒状では煙が細く、揮散する殺虫成分の量も少なく燃焼時間も約40分程度であった。明治28年(1895)、妻・ゆきの「渦巻き型にすれば長持ちするのでは」というアイデアに着想を得て改良に着手、試行錯誤を繰り返しながら明治35年(1902)、世界初の渦巻き型蚊取り線香の発売を開始した。
また、除虫粉を軍需物資として納入したことをきっかけに世界に販路を拡大、明治38年(1905)には日本除蟲菊貿易合資会社を設立、除虫菊は日本の主要な輸出品目の一つに育ち、外貨獲得に大きく貢献した。
明治43年(1910)には、「金鳥」の商標を登録。史記・蘇秦伝の「鶏口となるも牛後となる勿かれ」から引用したもので、業界の先駆者として、品質などあらゆる面で優れた存在でありたいという英一郎の熱い思いが込められている。
独創的発想でわが国の家庭用殺虫剤産業に先鞭をつけ、防疫に大きな貢献をした上山英一郎は昭和18年(1943)、81歳で亡くなった。