明治33年(1900)~平成9年(1997)
田辺市生まれ
博覧強記の経済学者
明治33年(1900)、現在の田辺市に生まれる。田辺中学校、第三高等学校を経て、大正13年(1924)東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学大学院で海運と海上保険論を専攻する。大正15年(1926)同大学助教授となり、その後、昭和10年から昭和12年まで欧州に留学する。この留学により幅広い見聞を得た義太郎は、数々の業績を残すこととなる。
株式会社研究の先駆的業績を多く発表し、行動する学者として知られていた義太郎は、経済ブレーンとして政府関係の多くの要職を歴任、特に、昭和30年代後半の海運業界再編成には、指導的な役割を果たし海運日本の再建に大きな功績を残した。また、エネルギー問題では、石油時代の到来をとらえ、海外石油事情と石油問題の情報収集・分析を行い、論文を発表するとともに政策立案に関わるなど、学問的研究と同時に実践の面においても日本経済の発展に大きく貢献した。
また、芸術・美術にも造詣が深く、多くの美術館の運営に関わるとともに、郷里の田辺市立図書館の蔵書充実や母校の施設整備、さらに父の志を継いで設立した財団法人脇村奨学会では、向学心に燃える青年の進路を拓き、幾多の人材育成にも尽力した。
昭和36年(1961)に東京大学を定年退職した後も、財団法人海事産業研究所所長、財団法人新日本奨学会理事長、経営史学会名誉会長、さらには昭和63年(1988)から平成6年(1994)まで日本学士院長(第20代)を務めた博覧強記の脇村義太郎は、平成9年(1997)96歳で亡くなった。