元治元年(1864)~昭和25年(1950)
那智勝浦町生まれ
紀伊半島に鉄道を敷設した功労者
元治元年(1864)、牟婁郡浦神村(現:那智勝浦町)に生まれる。医者の家に生まれ、熊野も医者になるべく育てられた。明治11年(1878)和歌山医学校を卒業後、東京外国語学校ドイツ語科(現:東京外国語大学)を経て大学予備門に入学。しかし、当時大きな盛り上がりを見せていた自由民権運動に共鳴した熊野は、「一人の病より、一国の病を医する」と決意。自由党に入党し、政治家としての道を志した。
明治18年(1885)同志と共に「扶桑政談社」を起こし、『雑誌通信録』を発行して政府批判を展開。このため禁固1年6ヶ月、罰金100円の刑に処せられる。刑を終えた熊野は、明治19年(1886)渡米し、現地で邦字新聞『新日本』を発行、政府の藩閥政治を激しく批判する内容の新聞を日本に送り込んだ。政府は輸入を禁止、熊野は活字購入のために日本に帰国した際に逮捕され、5年8ヶ月の重禁固に処せられた。
明治22年(1889)帝国憲法発布による大赦令により出獄、板垣退助らと共に自由民権運動を強力に展開する。明治26年(1893)28歳で県会議員に当選、明治31年(1898)の総選挙では和歌山3区から出馬し衆議院議員に当選した。
当選後の熊野は、一貫して紀伊半島での鉄道建設の必要性を訴える。「サル乗せて走るか熊野の汽車の旅」などと揶揄されたが、明治43年(1910)、熊野らは鉄道建設の建議案を提出。その後も弛まぬ努力を続け、大正8年(1919)第41回帝国議会で紀勢線の着工が可決された。紀勢東線、中線、西線の3線から始まった紀勢線は着々と路線を延伸し、昭和15年(1940)和歌山~新宮間が開通、昭和34年(1959)には和歌山市~亀山の全区間が開通し、ついに地域の念願が叶うこととなった。
不屈の闘志で紀伊半島への鉄道敷設のために尽力した山口熊野は、昭和25年(1950)、85歳で亡くなった。紀勢本線那智駅前には、熊野の功績を称える頌徳碑が建立されている。