文久3年(1863)~ 大正2年(1913)
和歌山市生まれ
国産飛行船の初飛行に成功した航空界の先覚者
文久3年(1863)、現在の和歌山市に生まれる。少年時代から物作りの技能に優れ、研究熱心であったという。明治19年(1886)、串本大島沖でイギリスの貨客船ノルマントン号が遭難、多くの乗客が犠牲になった。猪三郎は救命具の必要性を強く感じ、ゴムの浮輪の研究を開始、明治21年(1888)、大阪で外国人からゴム製品加工技術を学び、明治25年(1892)に上京し、港区芝浦でゴムを使った救難浮輪の製造所を開設。翌年には防波救命器の特許を得ることに成功した。
明治30年(1897)からは気球の研究に着手、以後亡くなるまでの16年間、私財の全てを費やすほど気球・飛行船の研究に没頭することとなる。明治33年(1900)、日本で初めて円筒型係留気球を発明。陸軍に採用され「日本式係留気球」と名付けられた。風圧に対する抵抗力が強く、展望時の動揺が少ないなどの特徴があり、当時の欧米の気球よりも優れていたといわれ、日露戦争時にも用いられた。
明治40年(1907)には品川区大崎に飛行船製作工場を建設。明治43年(1910)に山田式1号飛行船を完成させ、品川区大崎から目黒区駒場間を足かけ2日をかけて、国産飛行船による初の往復飛行を行った。猪三郎は改良を加えた飛行船を次々に製作、第3号飛行船は大崎から品川、お台場を巡る総飛行距離20kmの循環飛行に成功し、東京の人たちを大いに驚かせた。明治45年(1912)には中国革命軍から飛行船の発注があり、販売のため中国大陸に渡ったが、悪天候により飛行船が破損するなどの不運に見舞われ、失意の内に帰国。帰国する船上で病を患い、大正2年(1913)、51歳で亡くなった。
昭和4年(1929)、和歌山市和歌浦の高津子山のふもとに、有志によって顕彰碑が建立された。