嘉永4年(1851)~大正5年(1916)
和歌山市生まれ
国産オルガン、ピアノの量産化に成功した楽器王
嘉永4年(1851)、現在の和歌山市に生まれる。藩の天文係をしていた父の影響で、幼少の頃から機械への関心が深く手先が器用であったという。明治4年(1871)、長崎で英国人技師のもとで時計づくりを学び、後に大阪に移り医療器械の修理工となる。明治17年(1884)からは浜松に駐在。医療器械のみならず、時計や機械器具全般の修理などを請け負っていた。
明治20年(1887)、浜松尋常小学校のアメリカ製オルガンの修理を手がける。当時オルガンは大変高価で珍しいものであったが、寅楠は「将来、全国の小学校に設置されるであろうオルガンを国産化することは国益に繋がる」と、オルガン製作を決意。試行錯誤を繰り返しながら試作品を作成するが完成度が低く、東京の音楽取調所(現:東京芸術大学音楽部)で審査を受けることとする。当時はまだ鉄道が未開通で、東京までの250kmの道のりを天秤棒でオルガンを担いで運ばなければならなかった。音楽取調所での審査を受け、調律に不備のあることが判明。寅楠は特別に許可されて約1ヶ月間音楽理論を学んだ後に浜松に戻り、再びオルガン製作に取り組み、苦労を重ねながら、ついに日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。
明治21年(1888)には山葉風琴製造所を設立。明治25年(1892)には東南アジアへオルガンを輸出するまでに成長。明治30年(1897)、日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)を設立し、初代社長に就任した。
オルガン製作を進めながら、ピアノの国産化にも取り組み、明治32年(1899)、単身アメリカに渡った寅楠は精力的にピアノ工場を視察し、製造法を研究。翌年には国産第一号のアップライトピアノを、明治35年(1902)には初のグランドピアノを完成させ、明治37年(1904)にはセントルイス万国博覧会で寅楠のピアノとオルガンに名誉大賞が贈られた。
日本の楽器産業の先駆者である山葉寅楠は、大正5年(1916)、64歳で亡くなった。