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紀の国の先人たち

事業家 山本 勝之助(やまもと かつのすけ)

文久2年(1862)~昭和14年(1939)
海南市生まれ
地域の特産品を活かし、郷土の発展に尽くした事業家

文久2年(1862)、名草郡坂井村(現:海南市) に生まれる。19歳の若さで家業の木蝋製造業を継承したが、まもなく父が病死して事業が振るわず、先祖伝来の田畑、山林、別荘を手放して、家屋敷のみとなる窮地に陥った。しかし勝之助はそのような状況から奮起、薬種商への商売転換を決意。広く取引先を増やして販路を拡大することに成功、商売の基礎を固め難関を切り抜けることとなった。

また、野上地区で多く栽培されていた棕櫚(シュロ) に着目。当時は棕櫚皮がそのまま売られていたが、製品として売る方が利益拡大と地域振興につながると考え、強くて耐水性のある縄製品を開発、全国津々浦々に商品を展開、「手廻しせねば雨が降る」※ という経営訓を実践して事業を拡大していった。

勝之助は自らの繁盛だけでなく、郷土への貢献に深い関心と努力を払い、「寄付事一切遠慮仕らず候」と店頭に掲げ、神社、寺院への寄進や、学校、道路、河川防水工事などの公的な事業に多くの私財を投じ、また国有林を買い上げ、植林・緑化活動を行うなど、地域の発展に貢献した。

昭和14年(1939)、旅先の京都の旅館で倒れ、そのまま郷里に戻ることなく78歳で亡くなった。昭和34年(1959)、勝之助の功績を称えるため、地元の巽公民館に銅像が建立された。

※手廻し… 仕事の段取り  雨… 不測の事態 「商いを行う者は、常日頃から仕事の段取りを整えて不測の事態に備え、相手に対して迷惑と不信を招かないことが商業道徳上の最大責務である」という意味

(画像転載禁止)


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