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紀の国の先人たち

僧侶 山本 玄峰(やまもと げんぽう)

1866年(慶応2年)~1961年(昭和36年)
本宮町 生まれ
象徴天皇を鋭く示唆した高僧

湯峰温泉の芳野屋に生誕、遺棄されていたのを岡本夫妻に救われ、芳吉と命名され養育される。13歳から、家業である農林業を手伝い始め、16歳で筏(いかだ)流しとなって熊野本宮と新宮の間を往復。17歳の頃、岡本家を継ぎ、結婚する。

19歳の時、目を患い闘病生活を続けるが、失明を宣告される。失意の中、弟に家督を譲り、妻と離婚して僅かな旅費を持って新潟・北陸と流浪の旅へ出る。7回目の四国遍路88カ所の霊場巡りの時、33番臨済宗のお寺「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、その弟子となり厳しい修行の道に入る。25歳で出家し、玄峰の号を受け、明治34年、太玄和尚の養子となり、「雪渓寺」の住職となる。

再度、京都の圓福寺で宗般老師のもとで7年間の厳しい修行を受ける。翌年、龍沢寺の住職となり復旧に着手。さらに松蔭寺の住職を兼務した後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなどを歴訪。他にも様々な寺の復興に力を注ぎ、昭和11年旧満州国の新京(現在中国の長春)に妙心寺を開創する。

昭和20年、「終戦の詔勅」にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言。また、新憲法における天皇の地位については、「天皇は空に輝く象徴みたいなもの」と、天皇の権力で派閥の抗争を始めることを戒められたという。亡くなる直前の昭和36年、「玄峰塔」の大字を揮毫(きごう)する。

(画像転載禁止)


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