1869年(明治2年)~1926年(大正15年)
紀の川市(旧:粉河町)生まれ
南加在留日本人のリーダーとして活躍
明治2年(1869)、那賀郡荒見村(現:紀の川市)に生まれる。明治23年(1890)みかん輸出のため渡米、翌年、サクラメントで果樹園の農業に従事する。その後、サンフランシスコやサンノゼなどを行き来し、オークランドに居住していた津田立一と和歌山県出身者で構成する「紀友会」を創立する。
明治30年(1897)当時、ロサンゼルスには、300人ほどの在留日本人がいたが、日本から遠く離れた土地に暮らす同胞のために、当地における最初の日本語定期刊行物となる雑誌「新日本」を創刊する。明治35年(1902)には、サンフランシスコの日米新聞社と交渉して支社をロサンゼルスに設置し、自らその主任に就き「羅府日米」を創刊する。新聞等の機関紙の発行を通して、在留日本人の発展に全力を注いだ。
また、米国西海岸の日系人による漁業振興にも大きく貢献、まぐろやさけの新たな味覚を開拓し缶詰によって普及させるなど、羅府缶詰会社の社長として長年にわたって活躍する。 明治44年(1911)に組織された「南加和歌山県人会」では、大正11年(1922)まで会長を務め、会の運営と発展に尽力する。
大正13年(1924)、排日移民法が成立し日本人移民の米国入国が全面禁止される。この問題に対し東奔西走、帰国して政府関係者と会談するなど苦心し続ける。
和歌山県人の指導者であっただけでなく、在留日本人の発展に努めた銀之助は、大正15年(1926)、57歳で亡くなった。
ロサンゼルスには、南加在留日本人のリーダー・先覚者としての功績を称え、頌徳碑が建てられている。